馬ヶ城浄水場

馬ヶ城の水とは

馬ヶ城の水

パッケージコンセプト

水をイメージさせるしずく型の中に「馬ヶ城ダム」「陶磁器」「狛犬」「窯垣の小径」「つばきの花」など瀬戸の風景を配置し自然豊かな瀬戸のおいしい水を表現しました。

どうして作られたの?

豊かな自然の育みを受け、昭和8年創業から現在まで80年あまり。
瀬戸市の馬ヶ城浄水場は、今も昔と変わらず、ゆっくりと時間をかけた緩速ろ過製法により、自然に近いお水を皆様にお届けしています 。
瀬戸市では、その歴史と伝統ある「馬ヶ城」と、「お水」の存在を、多くの方々に知っていただこうと製作いたしました。

緩速ろ過って?

緩速ろ過

馬ヶ城浄水場では、今ではめずらしい、『緩速(かんそく)ろ過』という、ろ過方法で水をきれいにしています。

砂の層を一日あたり4〜5mのゆっくりとした速度で谷川からの水を通過させるろ過方法で、薬品は使用せず、自然の浄化能力を利用して水をきれいにしています。ろ過は、砂層表面や砂層内に 生息している微生物によって浄化が行われ、物理的、生物学的に濁質、細菌等の浮遊物や、アンモニア態窒素、鉄、マンガン、臭気物質などの溶解性物質が除去されます。

馬ヶ城浄水場の歴史

ダムができる以前の瀬戸市

ダムができる以前の瀬戸市

大正15(1926)年ごろ

瀬戸市では水道が敷設される前は、井戸水が利用されていましたが、地質などの関係からその水質は悪く6割以上が飲み水に適していませんでした。
このため大正末期から昭和初期に瀬戸市の中央部では、私費を投じたり、 組合組織による簡易水道を敷設していました。しかし、これらの簡易水道は市域全体を網羅するものではなく、衛生的な水を供給することはできませんでした。
また、瀬戸は明治末期からの石炭窯の普及によって生活用水だけでなく、防火のための上水道建設の必要性が高まっていきました。

馬ヶ城ダムの計画

馬ヶ城ダムの計画

1927年(昭和2)

瀬戸市内には水源となる大きな河川がないため、谷川の水を集めて貯水する方式で馬ヶ城にダムを建設し給水する水道計画が立てられました。
その計画は二転三転しながら、1930年(昭和5)内務省より水道敷設の認可を、1931年(昭和6)工事着工の認可を得て、ようやく工事へと動き出しました。
上水道の建設は、失業者の救済事業としての一面もありました。

起工式と地域住民の反対

起工式と地域住民の反対

昭和6年12月9日 工事起工式)

ダムの必要性について当時はなかなかご理解が頂けず、矢田川流域の白坂・山路を水源に引用することに対して、『灌漑用水を脅かされる』として農民600余名が、蓑笠姿の百姓一揆の様子で起工式当日に市役所に押しよせ、警察と衝突。10数名の検挙者をだす騒ぎとなりました。

通水式

通水式

当時は建設機械も少なく、人力の為工事は困難を極めました。水道管については男達の手掘りで敷設していました。
第1期工事完了 昭和8年12月16日 通水式
・馬ヶ城貯水池から下流部分の施設(堰堤・ろ過池・配水池・導水管路、市内配水鉄管)完成しました。
第2期工事完了 昭和11(1936)年6月16日 通水式
・補助水源の導水施設部分(馬ヶ城より上流部分)が完成しました。

新聞記事写真より

瀬戸川に浮かぶクジラの模型

瀬戸川に浮かぶクジラの模型

鉄管敷設
(現在の栄町)

鉄管敷設(現在の栄町)

建設中

建設中

馬ヶ城堰堤の鯉のぼり

馬ヶ城堰堤の鯉のぼり

建設中

建設中

通水式

通水式

写真:フォトスタジオ伊里提供

馬ヶ城の風景

馬ヶ城ダム

波紋の美しさ。

馬ヶ城ダムの見所といえは「ダムを流れ落ちる水の波紋」です。
これは沢山の雨が降った後のダムでしか見られない珍しい景色です。
この美しい景色が見られるのは水道週間の1日だけ。
前日に雨が降るのを祈りながら是非見に来てください。


馬ヶ城の四季

管理棟

管理棟

作られた当時そのままのノスタルジックな雰囲気の管理棟です。中には馬ヶ城ダムに関する資料館もあります。

観測小屋

観測小屋

当時の建築様式によって作られた落込建屋です。手間暇かけられた造りから、当時の思いが感じられる貴重な建築物です。

貯水池

貯水池

貯水池周辺は普段では入れないようになっています。

仕切弁

仕切弁

建設当初設置した仕切り弁

ヒマラヤ杉

ヒマラヤ杉

建設当初に植えられたヒマラヤ杉が馬ヶ城の歴史を見守っています。

ダムの上からの風景

ろ過池の上からの風景

絶景の風景が広がっています。

毎年6月、水道週間の日曜日の一般開放のみ見学ができます。

お問い合わせ

浄水場管理事務所
〒480-1203 愛知県瀬戸市広之田町233-14
電話:(0561)41-2250

馬ヶ城の史跡など

馬ヶ城の中世窯跡

馬ヶ城浄水場の森の中には、かつて「古瀬戸」と呼ばれる中世施釉陶器を生産した「窯跡」が、今もなお数多く残されています。これらは丘陵斜面をトンネル状に掘り抜いた 「窖窯(あながま)」と呼ばれるもので、瀬戸市域で初めて陶器の生産が開始された平安時代中期から室町時代にかけて築かれ続けた窯炉(ようろ)の形式です。馬ヶ城の窯跡は、主に13世紀後半(鎌倉時代)と14世紀後半~15世紀前半(室町時代)に操業していました。

古代・中世の窖窯(模式図)

古代・中世の窖窯(模式図)

椿2号窯跡の焚口

馬ヶ城椿2号窯跡の焚口(たきぐち):赤く焼けた部分

鎌倉時代の古瀬戸

鎌倉時代の古瀬戸(13世紀)

馬ヶ城の城跡

「馬ヶ城」の名は、この地にあったとされる中世の馬ヶ城跡に由来します。城跡は、貯水池の東側尾根上にあり、築城は鎌倉時代まで遡るともいわれています。城主は代々加藤太郎左衛門を名乗ったと伝えられ、室町時代末ごろまで城は用いられたと考えられています。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの折、岩崎城(現日進市)の城主丹羽氏次(にわうじつぐ)姉の夫の加藤 忠景(ただかげ)が、豊臣方の池田 恒興(つねおき)らの攻撃する岩崎城を守って討死したと伝えられています。この加藤忠景が馬ヶ城城主の 末裔(まつえい)ではないかと考えられています。

馬ヶ城の近代化遺産

昭和8(1933)年に給水を開始した馬ヶ城浄水場には、当時からの歴史的建造物もみられます。管理棟や観測小屋などに当時の建築意匠が垣間みられます。
浄水場管理棟は、屋根が半 切妻(きりづま)(ドイツ 破風(はふ))・鉄板葺きで、正面3ヶ所のマンサード様(半折れ屋根)のドーマーウインドウ(屋根窓)がアクセントとなっています。外壁はドイツ下見張りで、腰壁は 竪板(たていた)張り目地棒押えとしています。昭和初期の建築の要素を残し、 瀟洒(しょうしゃ)な洋館の意匠でまとめられた趣のある建造物です。

管理棟

管理棟

玄関脇の柱と庇との間に付けられた持ち送り

管理棟玄関脇の柱と庇(ひさし)との間に付けられた持ち送り