電気は、私たちの生活を支える大切なエネルギーです。今日の私たちにとって、電気のない生活は考えられません。電気には、金属や水など、大抵のものはそのまま通過するという性質があります。このため発電所でつくられた電気を各家庭に供給する時は、金属でできた電線(でんせん)を伝わって送られてきます。しかし、発電所(はつでんしょ)から変電所(へんでんしょ)を経て家庭を結ぶ間には、鉄塔(てっとう)や電信柱(でんしんばしら)などの、電線を支える支柱(しちゅう)が必要となってきます。ところがこれらの支柱は、電気を通してしまうため放電(ほうでん)し、電気が家庭に伝わる前になくなってしまう、ということが起ります。それを防ぐために取りつけられるのが、碍子(がいし)です。その使用場所によって碍子は、送電線用碍子(そうでんせんようがいし)、変電所用碍子(へんでんしょようがいし)、配電線用碍子(はいでんせんようがいし)に大きく分けられ、この中でも私たちの生活と関わりが深い配電線用碍子は、電気を逃がさずに電線と支柱を結びつけると共に、電線がたるんでしまうことを防ぐ役割を持っています。やきものの電気を通しにくい性質(絶縁性(ぜつえんせい))や、屋外でも劣化(れっか)しにくい性質を生かして、碍子はつくられるようになりました。

明治維新後の日本では、それまでの鎖国(さこく)のために、ほとんど海外の情報が入らなかったため、海外に比べて多くの分野が遅れていました。そのため、積極的に海外の技術を取り入れる動きがありました。その中でも発達の早かったのが、電信(でんしん)つまり電話などの、電気を信号に変える技術です。明治3年(1870)には、工部省電信寮(こうぶしょうでんしんりょう)が創設され、電信に関わる研究がなされました。国産化されていない部品については、輸入品で対応され、同5年(1872)に京都・大阪間の電信開通に成功しています。こうした需要の高まりから、国産の電信用碍子が最も早く求められました。早くも同6年(1873)には、有田の深川栄左衛門(ふかがわえいざえもん)や、瀬戸の加藤杢左衛門(かとうもくざえもん)によって、電信碍子がつくられています。そして、窯業技術を持った各地で、電信碍子はつくられていきました。

次に取り組まれたのが、電灯(でんとう)つまり電気を明かりに変える技術です。明治12年(1879)にアメリカでエジソンが発明した電灯の技術は、すぐに日本にも伝わりました。同20年代には日本にも次々に電灯会社が設立され、実用化されていきます。電灯の明るさは、送られてくる電圧の大きさによって変わります。電圧が高くなると、電灯は明るくなりますが、逆に絶縁は難しくなります。同20年代の電力は、電圧も近く近距離の送電が主になっていたので、国産低圧碍子を用いていましたが、同30年代になると、特別電圧送電が始まったため、国産の碍子では対応できず、輸入の高電圧碍子を用いることになりました。しかし、同38年(1905)には、京都の松風嘉定(しょうふうかじょう)工場で高電圧碍子の製造に成功、翌年(1906)に名古屋の日本陶器合名会社が、続いて同40年(1907)に瀬戸の加藤杢左衛門が製造に成功し、国内の需要に応えることができるようになりました。その後も、電気使用量の増加に伴って、電圧は高くなっていき、それに耐え得る碍子がつくられていきます。明治42年(1909)には日本陶器によって特別高圧碍子がつくられました。戦後、碍子産業は、大企業を中心として発展し、懸垂碍子(けんすいがいし)やSP 碍子、中実LP 碍子など、その目的に応じたさまざまな碍子がつくられ、活用範囲を広げています。私たちの生活にとって、碍子は欠かせないものとなっているのです。

特別高圧用碍子
高さ50.2 (株)エージック
家庭配電用碍子
幅7.0 タケオ電陶(有)
特別高圧用碍子
高さ134.7 山悦電機製陶(株)
特別高圧用碍子
幅60.0 (株)ニワショーセラム
変電所の碍子
配電用鉄塔の碍子
ローゼット
大正〜昭和時代 幅8.2
瀬戸市歴史民俗資料館蔵
コンセント
昭和時代前期 幅11.4
瀬戸市歴史民俗資料館蔵
耐塩耐雷用碍子
(金具取付前・後)
幅30.1 ヤマキ電器(株)
耐塩用碍子
高さ30.6 ヤマキ電器(株)